文楽の太夫で人間国宝の竹本住太夫が4月28日、肺炎で逝去されたことを翌日の新聞で知り、びっくりしました。93歳でした。住太夫の舞台は、心理描写や状況描写がきめ細かく的確で、太夫という職務のすごさを感じさせるものでした。「(お客さんに)泣いてもらえる舞台を」が口癖で、舞台を見て何度も感動を受けた思い出があります。数年前に(体調を理由に)引退しておられたので、いつかは、と思っていたのですが、訃報に接するととても残念で、心から冥福を祈ります。
ところで、新聞を見てびっくりしたもう一つは、芸名が「住大夫」でなく、「住太夫」となっていたこと。「大夫」と「太夫」、一字違いですが、私の記憶では、文楽の太夫の芸名は大夫が常識で、住太夫と書かれても今一つしっくりとしないのです。「いつの間に変わったのだろう?」
実は4月9日に大阪・国立文楽劇場の文楽公演を見たばかりだったのです。夜の部「彦山権現誓助剣(ちかいのすけだち)」を観劇したのですが、そのパンフレットを見直すとやはり、職名も芸名も太夫になっていました。昨年も何度か公演をのぞいていたのに。そこでネットで調べてみると、すでに2年前の2016年春に変わっていたのです。不明を恥じるしかありません。
文楽太夫の芸名は戦後まもなく、名人の豊竹山城少掾の提唱で、「大夫」にされたとされています。同じ義太夫でも、清元、常磐津、歌舞伎の「竹本」、娘義太夫(女流)などに比べて、修業が極めて厳しく、文楽は「別格であれ」との願いを「大」の字に込めたらしいのです。その当否はともかく、文楽では演じる側も「大夫」を自認し、ファンも常識として受け入れてきました。近年、アマチュアとプロの境がなくなり、安直な芸がはびこっていますが、文楽だけは時流に流されず、本格派を目指して欲しいとの願いを込めていたと思うのです。
ところが、ネットの記事によれば、語り手一同が「義太夫節を創始した竹本義太夫と同じ表記にしたい」と太夫に戻ることを申し出たようです。「太夫」であろうが、「大夫」であろうが、芸に変わりはないということでしょうが、「大夫」にはある意味、「決意」が込められていたと思うのです。竹本義太夫の時代に戻るのはいいとしても、結果として普通の「太夫」に戻った訳で、そこにどんな意味があるのか、分からないというのが正直なところです。
4月のパンフレットによると、現・太夫陣はわずか19人、このうち、芸が最高域にあると認められる「切り場語り」は豊竹咲太夫1人だけです。竹本源太夫(前、綱太夫)、住太夫の相次ぐ死去、さらに人間国宝の豊竹嶋太夫の引退で、太夫陣は非常に心許ない状況にあると言っても過言ではありません。現メンバーで安心して聴いておられるのは、竹本千歳太夫、豊竹呂太夫、竹本津駒太夫、住太夫の弟子の文字久太夫ぐらい、これに若手の呂勢太夫、このほど襲名した織太夫(前、咲甫太夫)ぐらいでしょうか。しかし、現メンバーでは、三大名作の「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」の通し公演は到底無理なようにも思えるのです。重鎮の死去などで、戦後の文楽は何度も危機に陥りました。それをはね返して今日があるのですが、ぜひ、奮起して欲しいところです。