月遅れの話題になってしまいましたが、毎秋、楽しみにしている恒例の行事が正倉院展です。第65回が10月26日から11月11日まで奈良国立博物館で開かれましたが、ご縁があって内覧会に誘われ、順番待ちの行列に並ぶこともなく、ゆったりとした気持ちで鑑賞することができました。そのときに思いもかけず、近江と出会ったのです。
新聞の特集や報道によると、正倉院展の一番人気は華麗な彩色が施された平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)や漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)、鹿草木夾纈屏風(しかくさききょうけちのびょうぶ)など圧倒的に工芸のようです。しかし、私の関心はもっぱら人気のない古文書の方です。もちろん、文書をきちんと読めるほどの素養はなく、ただ、眺めるだけといった方が正確ですが、漢字を追っていると日ごろの関心事や近江とかかわりのある字句が浮かび上がってきて、古文書の世界がとても身近に感じられるのです。
一番の掘り出し物は作品47の続修正倉院古文書第9巻「近江国志何(しが)郡古市郷計帳手実」です。古市郷に住む大友但波史族吉備麻呂(おおとものたんばのふひとうからきびまろ)のいわば戸籍簿で、天平年間から神亀2年にかけての9通の文書で構成されていました。
天平2年(730)の項を見ると、戸主の吉備麻呂は40歳で、近江国府などの警固に当たった健児(こんでい)。妻の諸兄女も40歳。二人の間には9歳と15歳ぐらいの娘が2人いるらしく、ほかに22歳の妹……。薄学でおまけにすべての字が読めるわけではなく、はなはだ心もとないのですが、こんな家族構成が浮かんできました。吉備麻呂家については天平元年や同6年のものもあり、表現が微妙に違うのですが、それらを追っていると、古市郷、現在の大津市膳所や石山近辺のどこかに堅実に暮らしを営んでいた「滋賀県人」の姿がしのばれてきました。
同じ古文書の第23巻で面白い文書を見つけました。当時の写経生の借銭申請書です。写経所で働く下級の公務員が、生活が苦しいために、勤め先の写経所から毎月のように、前借していたそうで、これはその借用書です。説明文によると、月ごとの利率は百文あたり13文~15文だったそうです。もし、これを年利にするとたちまち100%を越えてしまいます。当時の役所がとんでもない高利貸しだったわけで、翌月の給料時に、元金や利子をきっちりと差し引いて支給していたのではないでしょうか。するとまた、前借です。「いつの時代も低所得者は」と少し考え込んでしまいました。
このほか、メモが見当たらず、記憶でしかいえませんが、石山寺造営に関する古文書もあり、興味深く感じたことを覚えています。
正倉院展で見た近江関係の史料。たまたまかもしれませんが、やはり、当時の奈良朝にとって、近江は大きな役割を果たしていたに違いありません。表舞台には立たないが、中央を支える側としてなくてはならない存在だった近江、そんな姿は現在にも通じる気がします。正倉院で保存されている貴重な資料をいつか、「湖国と文化」でも紹介したいと考えています。
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正倉院展で出会った奈良朝「滋賀県人」の痕跡 - びわ湖芸術文化財団 地域創造部
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