平成7年から9年間に渡り、仙台市市民文化事業団が主催する「劇都仙台(げきとせんだい)」という演劇事業にプロデューサーとして関わっていました。当時、演劇ワークショップという耳慣れない言葉を用い、稽古とワークショップの違いを説明しつつ、地域における演劇人の人材育成と演劇プロデュース公演を毎年実施していました。初年度、ソーントンワイルダー作「わが町」を劇団文学座の演出家である西川信廣氏に依頼し、新しい演劇人の発掘のため一般公募で出演者を募集しました。当方も、行政の外郭団体である組織と共に演劇事業を推進することが初めてであり、財団職員も我々スタッフも手探り状態、試行錯誤でプロデュースしました。
余談ですが、その時の関係者といつも話題になることがあります。事業予算が少なく、経費節約ため、宿泊費を切り詰め、長期滞在ホテルを選びました。そのホテルがなんともいえないサイケチックな空間や間取りをしており、ところどころ壁紙が破れていたり、ゴキブリが時々でたりで、今思うとスタッフには大変失礼なことをしてしまったと反省いたします。しかしながら、関係者からは、初めての地域での演劇活動に興奮気味で、何が起こるか分からない安宿の不思議なホテルも、なかなか味わえない貴重な体験だったと未だに感想を述べて下さいます。
その演劇ワークショップに少しユニークな市民が応募してきました。その受講生は、なかなか自分の氏素性を明かさず、不思議なたたずまいを見せ、いろいろな質問や演出家からの要求に対して、大変面白い反応を見せていました。面接の際、「なぜ、この演劇ワークショップに参加したのか」と尋ねますと、「蕎麦屋でアルバイトをしている。お客様に御蕎麦をふるまう時にどのような演出をしたら、お客様が一番喜んで下さるのか。その楽しませ方を演劇で勉強したい。お客様とのコミュニケーションの質を高めたい」というのです。「へぇー」と審査員は一同感心し、「この子は何者なのか。もしかしたら、将来大物になるのではないか」と一気に期待は膨らみました。
その受講生は、“いとうみや”という女性です。現在、仙台市で演出家として活動し、東北大震災後の仙台演劇界を支えていく中核的な演劇人に成長しました。演劇ワークショップ生として役者経験からスタートし、劇都仙台を数多く演出して下さった、現・新国立劇場芸術監督で劇団青年座演出家の宮田慶子氏の演出助手を務め、その後、宮田氏に私淑して演出の勉強をしていたといいます。
6月末、兵庫県尼崎市にあるピッコロ劇場に仙台の演劇人が実施するSENDAI座というプロジェクトを観劇し、「ハイライフ」というカナダの劇作家の作品を演出していました。師匠の宮田氏譲りの正攻法な芝居作りで、劇作の構造を良く考え、俳優一人一人の魅力を引き出している内容に勉強の成果が表れていました。
アフタートークでは、生の彼女と対面し、再会を果たしました。その会話の中で彼女は、「震災後になぜジャンクコメディという性格の作品をやらねばならないのか」と逡巡し、その葛藤が自分を成長させたと語りました。震災直後よりも「なぜ自分は演劇をやっているんだ」ということを多く考えるようになり、今は演劇と向き合い、自分自身と向き合いつつ、演劇活動をしているということでした。
仙台市で実施した演劇ワークショップから18年が経過しました。時の速さを感じると共に、人材育成の重要性をヒシヒシと再認識し、育成には中長期的な時間の流れが必要だということも改めて実感しました。特に地域は、ノウハウの蓄積が少ないために、都市圏より数倍時間を要します。あの時の仙台市の演劇事業がなかったら、“いとうみや”という地域で女流で活躍する演出家は出現しなかったわけですが、それを考えただけでもゾッとしました。地域における文化芸術事業や人材に投資する重要性を考えざるを得ませんでした。